前田 純孝(まえだ すみたか、まえだ じゅんこう、1880年4月3日 - 1911年9月25日)は、明治期の日本の歌人。兵庫県二方郡諸寄村(現・新温泉町)出身。兵庫県師範学校を経て東京高等師範学校に進学し、学生時代から新詩社の「明星」に短歌や長詩を発表する。卒業後は大阪府立島之内高等女学校(現・大阪府立夕陽丘高等学校)の教頭に着任するも、多忙のために倒れる。貧困と病(結核)に苦しんだ末に早世した。その才能は与謝野鉄幹をして「東の啄木、西の翠溪(すいけい)」と言わせしめたほどであった。
出身地である新温泉町には前田純孝(翠渓)歌碑があり、「前田純孝賞」学生短歌コンクールを開催している。
脚注




